催し物

企画展「シベリアでの出会い」抑留者に生きる希望を 取り戻させてくれた救いとなるような出会い

 

この企画展は、「人との出会い」「文化との出会い」の二本立てで構成。

抑留者が日本に帰国後、

当時を振り返って描いた絵、

文化活動の中で抑留者が使っていた楽器、

抑留者とソ連兵・現地住民の交流を示す品など、約50点が並ぶ。

「シベリア抑留」―。

第二次世界大戦後、

日本兵捕虜たちが酷寒の地、劣悪な環境の中での

強制労働やソ連兵から受けた非人道的な扱いを受けたことは

紛れもない事実でありながら、

帰国した抑留者の中には、現地の人や文化との「出会い」を

語る人も少なくないという。

現地住民に食料を分けてもらったり、

生まれて初めて聴くロシア民謡に魅了されたり、

抑留者で結成された楽隊を組んで音楽活動をしたり…。

さまざまな出会いを通して、

生きる喜びや日本に帰る希望を生み出した抑留者がいました。

そんな「絶望の中の喜びや希望」を

多くの人に感じてほしいと企画されたのが、

平和祈念展示資料館の企画展

「シベリアでの出会い 抑留者の心に残った異国の人と文化」です。

 

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シベリア抑留はなぜ起きた?過酷な労働内容とは。

 

武装解除した日本兵が主にシベリアやモンゴルなどに作られた収容所に

移送され、強制的に過酷な労働をさせられたことをいいます。

なぜ多くの日本人(約57万5000人)が抑留されることになったのか?

 

1945年7月26日、ポツダム会談において、

アメリカ、イギリス、中華民国、ソビエトが 日本に降伏を勧告し、

 

戦争放棄をした日本兵は、終戦後 家族の元へ帰ることを約束する。

ポツダム宣言にはきちんとそう記述されている。

 

終戦(1945年8月15日)直前の1945年8月9日、

ソ連が日本に対して宣戦布告をし、

満州や朝鮮半島の日本領へ侵攻を開始しました。

その数日後である8月14日に、日本は無条件降伏の意思を示します。

しかしその後もソ連の侵攻は止まらず、数日間続きました。

日本兵がすでに武装解除しているにもかかわらず、

軍人・民間人問わず多くの日本人が捕らえられ、

ソ連の収容所に送られたのです(捕虜)。

過酷な労働内容は

 

当時のソ連は主にドイツとの戦いで

国全体に復興のための労働力が大きく欠如していて、

敵国だった日本人やドイツ人を数百万人規模で捕らえ、

劣悪な環境のなかで

鉄道建設や土木作業、炭坑や鉱山での作業、農作業など

さまざまな労働に強制的に従事させました。

人との出会い・・・《ソ連兵 現地住民 ドイツ人抑留者》

 

辛い体験の中で抑留者に生きる望みを取り戻させてくれる

救いとなるような出会いがあったのです。

日本兵たちが劣悪な生活環境の中で受けた暖かさと温もり

 

国籍は違えど同じ人間同士ならではの心の響き合いがあった証しが、

ソ連兵士や医療者たちの温もり

 

抑留者の気持ちを理解してくれた兵士たちも存在し、

メーデーの休日を抑留者とソ連兵が一緒に楽しむ場面があったり、

医療従事者の抑留者への温かい対応や熱心な治療に心を打たれたり

した抑留者も少なくないという。

現地住民たちとの交流

 

住民たちとの交流もまた、抑留者たちの心を支えた。

村の広場の水くみ場で農家の主婦がヨーグルトを分けてくれたり、

地域の子どもと話したりした光景などを、

水彩画で温かいタッチで描いた。

抑留者がソ連兵や現地住民から

もらった

刻みたばこ、時計、硬貨や、

ドイツ兵の抑留者との交流を示す品も

展示されている。

《帰国の時もらった時計》             《ヨーグルトをくれる主婦》

「文化との出会い」

「文化との出会い」の中で見どころは、

抑留者で結成された楽劇団「沿海州楽劇団」で使われていた

ソ連製のギターとトランペット。

抑留者の使っていたトランペットが展示されているのは、

平和祈念展示資料館と舞鶴引揚記念館の2カ所のみという貴重な展示品。

抑留生活を伝えるシベリアの楽器

楽器を寄贈したのは

東京都に住む大塚旭さん(2009年89歳で死去)。

トランペットは

舞鶴引揚記念館が所蔵するトランペットと、

同時代のものではないかとみられている。

「…ピストンが横向きについてて、横に押すようになってる」

「ライチーハの収容所には劇団があってね。

団員は全部で50人くらいだったかな。

捕虜を慰めるために歌でも踊りでも、なんでもやるのさ」

大塚さんは1949年に帰国。

抑留中、沿海州楽劇団に所属していたとみられる。

同じ劇団にはバイオリニスト黒柳守綱さん(黒柳徹子さんの父)もいて

1949年に帰国した黒柳さんもバイオリンを持ち帰ってきたという。

黒柳さんによれば、

「父が亡くなったとき、シベリヤ抑留者からどんなに自分たちが

音楽で慰められたかということで手紙がきた」そうな。

シベリア抑留の経験者、なかにはこんな有名人も!

 

ポケットに忍ばせたハーモニカで「荒城の月」などを吹き、

戦友を励ましました。

寒さ、飢え、疲労、そして日本への郷愁で、みんな、すすり泣きました。

三波春夫「浪曲上等兵」と呼ばれ 日本人収容所を慰問

 

歌手の三波春夫さんは、陸軍に入って満州にわたり、

4年間シベリアに抑留され、

収容所では自慢のノドを活かして浪曲を披露していたそうです。

実は、三波は何度もロシア人の前でも歌っており、

アパートの修復工事をしていたとき、

覚えたてのロシア語で「カチューシャの唄(うた)」を歌うと、

「ヤポンスキー(日本人)、ハラショー(素晴らしい)」と大騒ぎに。

おばちゃんがパンをくれた。

次の日も、その次の日も。多くの笑顔に三波は囲まれた。

音楽堂の補修工事のときも歌ってと頼まれ、

古賀政男作曲の「青い背広で」を歌うと、

大きな拍手がわく、そんな日々。

作曲家 吉田 正「異国の丘」で望郷の思いを歌っている

 

1943年(昭和18年)に陸軍上等兵として満州にいた吉田正が、

部隊の士気を上げるため作曲した「大興安嶺突破演習の歌」が原曲で、

戦後、シベリアに抑留されていた兵士の間で歌われ、

抑留兵のひとりだった増田幸治が作詞。

 

平和祈念展示資料館常設展

 

常設展は、「兵士」「戦後強制抑留者」「海外からの引揚者」の

三つのテーマから成っています

「 召集令状 」”赤紙”

 

が展示されています。

戦争小説でたびたびテーマにあげられるのが、

兵隊の召集令状、通称“赤紙”。

赤紙はいったいどのように各家庭に届けられていたのでしょうか?

赤紙は、召集される人の本籍地の市町村役場の「兵事係」、

つまり公務員によって届けられ、

役場では居住地を正確には把握していない場合は

国民を細かく管理できていた交番であったそうです。

 

元自衛官だった作家・浅田次郎さんが教えてくれた、戦争の知られざる6つの裏側

引揚げ者

 

シベリア抑留者約47万人の帰国事業は

1947年から1956年にかけて行われました。

日本人抑留者と一緒に引き揚げてきた捨て犬「クロ」

 

日本人を追ってナホトカの氷の海に飛び込んだ犬がいた!

収容所で日本人抑留者の心を癒してくれた捨て犬クロ。

昭和31年(1956)12月24日、

シベリアからの最後の引き揚げ船・興安丸の出港寸前

クロは興安丸を目ざして岸壁から飛び込んだのです。

懸命に泳ぎ、氷に這い上がり、海に落ちてまた泳ぐ。

皆は泣きながら船長の玉有勇さんにすがり、

玉有さんは船員に指示し氷上に降りてクロを拾い上げた、

拍手と歓声が沸いた。

舞鶴港に着きクロは地元の住民に貰われて子供をもうけ、

玉有さんはクロの子供を貰った。

 

企画展「シベリアでの出会い 抑留者の心に残った異国の人と文化」

会場:平和祈念展示資料館(東京都新宿区西新宿2-6-1、

新宿住友ビル33階

入館料:無料

期間:令和3年11月2日(火)~令和4年1月30日(日)

開催時間:午前9時30分~午後5時30分(入館は午後5時まで)

休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合はその翌日)、

12月27日(月)~1月4日(火)

ABOUT ME
yumiko
パソコン初心者のシルバーエイジです。自分で言うのもおかしいですが、それほど世の中の常識にとらわれることなく前向きなほうです。言い換えればマイペースです。猫2匹と暮らし、近所の犬とも無条件の信頼でつながっています。