催し物

戦後80年企画展「東京湾要塞と館山」地域に残る戦跡と人々の暮らし

赤い点線と、赤い帯状の網かけで「要塞地帯」を示す。

首都東京の入り口である東京湾周辺の防衛を目的に設置された

軍事拠点で1937年の日中戦争から1945年の終戦まで続きました。

要塞周辺は「要塞地帯」と呼ばれ、そこに住む人びとは特別な

法律のもとに置かれており、戦前・戦中に東京湾要塞地帯に

暮らした安房地域の人びとは、どんな思いをもって生きていたのか、

地域の人びとにとって、戦争とはどのようなことであり、

平和について改めて考えるよい機会です。

 

”知られざる“とりでの町”館山をたどる

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企画展「東京湾要塞と館山」開催
〜館山に残る戦争の記録から、平和を考える夏へ〜

 

期間 2025/8/2〜10/19
休館日 毎週月曜(祝日は開館し翌日休館)
時間 9:00〜16:45(入館は16:30まで)
住所千葉県館山市館山351-2城山公園内
観覧料 一般400円(300円)小・中・高校生200円(150円)

 

東京湾要塞(とうきょうわんようさい)とは?

《きっかけ》は

欧米の船舶が日本列島周辺に出没するようになった江戸時代後期に

海防論が高まり、江戸幕府は幕末、江戸前面に砲台整備に着手

しました。

 

三浦半島および房総半島に設置された32の砲台と海堡(かいほう=

人工島)で構成され、これらを総称して東京湾要塞と呼び、

管理は陸軍の東京湾要塞司令部が行い、明治時代に建設が始まり、

設備を増強しながら終戦まで続きましたが敵の艦船や上陸部隊を

砲撃することはついになかったのです。

軍事拠点としての要塞都市に何が必要だったのか?

 

軍事拠点として、要塞の機能を維持するには、

⓵ 物資の補給や砲台などの設備、

② 人員と兵が暮らす環境の確保が重要。

そのため、平常時は人が暮らす都市を、要塞として使用、

戦争・武力衝突や自然災害など国家にとって非常事態が起きた時は

軍事的拠点となった。

主要建築物

 

第一海堡

 

1890(明治23)年12月完成、富津岬の沖合いに位置し、

東京湾要塞の海堡として最初に運用が開始、第二次世界大戦後に

日本を占領下に置いた連合国軍により中央部が破壊されている。

海底の水深は1.2 mから4.6 m、ここをを撤去しても、航路として

使用するには底面をさらい土砂などを取り去る工事が必要。

第二海堡

 

1914(大正3)年6月完成、富津市、関東大震災で、地下通路の

床が持ち上がって通行不能になり、構造物にも亀裂など大きな被害

を受ける。修復は困難と判断され、廃除されたが、

その後、最低限の補修が行われ第二次世界大戦中はカノン砲や防空

指揮所などが設置されたほか、敵潜水艦の東京湾への侵入を防ぐ

防潜網が設置された。

戦後は海上保安庁によって灯台が設置され、1977年からは

海上災害防止センターの消防演習場として利用されている。

 

富津元洲堡塁砲台(ふっつもとす ほうるいほうだい)

富津元洲堡塁砲台

堀で囲まれた城郭のようなもの

これが、東京湾防備の要塞の

富津元洲堡塁砲台の跡です。

 

堀が囲んで外見は近世の

城跡のようです。

 

 

 

ここが、房総半島側の唯一の堡塁砲台の跡。

堡塁は、コンクリートで築かれた要塞、そこに大砲を備えたの

堡塁砲台で、まさに東京湾防備の前線基地です。

金谷(かなや)砲台

 

大正13年3月竣工 終戦まで存続した砲台。

現在もバス停名称に「砲台山」が残り、砲座や砲側庫をそのまま

活用していたため、今もその遺構が残る。

《構造》

震災後の応急砲台として

建設され、鋸山(のこぎりやま)

北側の山上に、4つの砲座が並び

砲座間には低い防御壁が存在する。

砲座の後には小山が築かれ、その地下にコンクリート製の

砲側庫があり、内部は通路が十字に交差しており、

部屋が6室設けられている。

大房岬(だいぶさみさき)砲台

大房岬砲台跡(東京湾要塞)

 

昭和2年から終戦までの19年間、

富浦の海岸一帯は「東京湾要塞地帯」と

なり、守りの重要地点となりました。

《大房岬砲台跡の画像》 

口径20センチカノン砲が配備されていました。現在は砲台部分をレンガで覆っています。

町民は大房付近の漁場には近づくことができませんでした。

洲崎第一砲台

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砲台自体は別荘地の開拓で

消滅している。

そこから直線距離で 200m程の

位置に何やら地下壕口が開いている。

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洲崎第二砲台

 

名称とは逆に、洲崎第二砲台のほうが古く、

昭和2(1927)年3月に完成しました。

洲崎第二砲台は、敵の軍艦から見つからないように、

坂田漁港南方の深い谷間の、標高が低い位置につくられました。

写真は、隧道式(ずいどうしき)弾薬庫です。

隧道の中央部に2カ所弾薬庫が設けられています。

館山海軍航空隊

 

穏やかな館山湾は、水上航空機の発着に適しており、

この遠浅を埋め立て、海上航空基地には適した地形にするため

3年間の土木作業や埋め立て工事によって、昭和5年全国で

5番目の館山海軍航空隊が開隊しました。

この飛行場は、実戦部隊の新設をきっかけに、

館山空が実戦部隊として機能することにもなりました。

館山海軍航空隊では、パイロットの育成や航空機の開発を進め、

1937年からはじまる日中戦争では海を渡り「渡洋爆撃」を成功させ

高性能さを世界に知らしめます。

要塞地域の人たちはどう生きていたのか?

 

日本の満州支配が続く中、日中戦争が勃発、


日本国内は国家をあげて戦争に打ち勝つ体制を作り上げます。

《日本がなぜ満州国を積極的に支配しようとしたのか》?

満州は、豊かな資源を持ち、特に鉄鉱石や石炭などの鉱物資源が豊富、この地域の支配を確保すること。また、満州はロシアや他の大国と接しているため、地理的な位置は日本にとって重要でした。

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国家総動員法」を制定の理由は何?

 

史学博士
史学博士
1937年に始まった日中戦争が長期化していたこと、日中戦争終結に向けためどが全く立たない中で、財政的な負担だけが膨らんでいったんだ。

「国家総動員法」とは

 

日本は軍隊だけでなく国民全員を戦争に動員する法律を作り、

国民生活のすべてを統制することのなりました、

物や人を自由に使えるということは、人の言論の自由も奪うことに

なり、「戦争反対」などと言うこともできません。

食事も制限され、住民同士互いに監視し合うための隣組などが

作られました。

 

「物資統制」

 

米、砂糖、衣類、燃料などの生活必需品が自由に買えなくなり、

「この切符がないと買えない」と言われ、配給制になりました。

「徴用制度」

 

女性や学生までもが工場や農場で働かされるようになりました。

「兵士だけが戦う」のではなく、「国民みんなが戦う」という

考え方に基づく制度です。

海辺の暮らし

 

漁師たちは、発動機のついた漁船が徴用にとられ、

魚をとることもできません。

海にもぐれる海女さんたちは、アワビやサザエの代わりに、

火薬の原料になるカジメやアラメなどの海藻を

採集するように命じられました。

花禁止令

 

農家には食糧増産のため作付割当てが命じられ、

1944年になると、千葉県では花が禁止作物に指定されました。

花畑はイモ畑や麦畑に作り替え、種も球根もすべて

焼却しろとの命令です。

村の青年団が畑や納屋を見回って監視し、花の種を持っている

農民を処罰されるようになりました。

 

史学博士
史学博士
長引く日中戦争を、国家総動員で乗り越えようとするが日本には致命的な弱点があった。「資源が乏しい」ことなんだ。
lala
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石油とか…燃料になるもの?

 

そうなんだ、石油がなければ船も動かないし、飛行機も飛べない。長引く日中戦争に勝利するためには、資源の獲得が最重要課題だったんだ。

 

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日本は東アジアの資源を求めて南下していくことになるのね。 
史学博士
史学博士
ヒトラー率いるナチスドイツ軍がポーランドに侵攻したことで始まった1939年の第二次世界大戦がそれを可能にしたんだ。

東インド諸島(東南アジアの島々)には豊富な油田があり、

日本はこの地をおさえ、資源の獲得を目指しました。

長引く日中戦争に勝利するためには、

資源の獲得が最重要課題だったのです。

 

さいごに

戦況不利とみた1945年の4月には館山の那古(なご)に

「東京湾要塞司令本部(戦闘司令部)」が置かれ、

いよいよ本土決戦が待ち構えられました。

皇居や大本営を、最も海から遠い場として

長野県「松代」に移す計画も急速に進められていました。

この企画展では、

ここにはどんな軍事施設ができたのか

戦争中の館山の人々の暮らしはどうだったのか

戦後、要塞の跡地や軍の施設はどうなったのか

どんな資料が残されているのか

を知ることができ、平和について改めて考えるよい機会でも

あります。

ABOUT ME
yumiko
パソコン初心者のシルバーエイジです。自分で言うのもおかしいですが、それほど世の中の常識にとらわれることなく前向きなほうです。言い換えればマイペースです。猫2匹と暮らし、近所の犬とも無条件の信頼でつながっています。