現在の皇室でご養蚕が正式にスタートしたのは明治4年。
明治天皇の皇后、昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)陛下が
養蚕を試みます。
この時、皇后に世話人・親戚の田島武平を推薦したのが
一万円札の顔・渋沢栄一でした。
明治6年(1873年)6月24日、操業開始後間もないころに
明治天皇の皇后及び皇太后が富岡製糸場を行啓されました。
富岡製糸場が近代化の先駆けとして期待され、注目されていたことが
よくわかりますね。
2023年は、この行啓から150周年となります。
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純国産「小石丸」
皇室で育てられてきたカイコは「小石丸」という品種で、
日本古来の在来種です。
大正天皇皇后、貞明(ていめい)皇后陛下がまだ皇太子妃だったころ、
東京養蚕講習所(現在の東京農工大学)を視察された際に献上されたものが
始まりだったと言われています。
小石丸からとれる生糸は、
⓵ 非常に細く、毛羽立ちが少なく糸の張りがとても強い高級品。
② 小石丸一頭からとれる生糸はわずか約500m、他の品種のカイコと
比較して半分以下で、
③ 産卵数が少なく病気に弱いなど、飼育が難しい。
蚕の数え方は「匹」ではなく「頭(とう)」
家畜の牛や馬と同様、家蚕(昆虫の家畜)なので
「頭」で数えるそうです。
「御地赤(おじあか)」天皇陛下直系の内親王方が身に付ける伝統的な着物
愛子さまが5歳を迎えた年の元日、愛子さまは「御地赤(おじあか)」の
着物を身に着けられ、
生地は、宮内庁から届いた小石丸からつくられた生地。
「御地赤とは、天皇陛下の直系の女性皇族である内親王方が成人になるまで、
元日など節目となる日に身につける宮中の伝統的な着物で、
朱赤の絹地に、松や梅などおめでたい柄の刺繍が金糸で施されています」。

←黒田清子さん
愛子様の御地赤→→
カイコの一生とは・・・すべては繭を作るため
この繭が出荷され、生糸に加工されるんだ。 繁殖用のカイコは繭の中でさなぎになり、2週間ほどで羽化。
まもなく交尾し、500個ほどの卵を産むが、成虫は食べたりせず、ほとんど移動することもなく、1週間ほどで短い一生を終えるんだよ。
行啓「富岡製糸場」明治から150年続いてきた皇室の養蚕
この絵はタテ3m×ヨコ2.7mの大きさで明治神宮外苑の「聖徳記念絵画館」に
飾られています。意外とここに飾られていることは知られていないのでは?
明治6年6月24日に、明治天皇の皇后及び皇太后が
富岡製糸場を行啓されました。
製糸場には約300人の工女たちが働いていました。
皇后たちが繰糸場に入ってくると、繰糸機が動き、工女たちはさっと襷をかけて作業を始めました。
製糸場では所長の案内で事細かに製糸の状況をご覧になり、
皇后の養蚕奨励のお考えは、生涯変わりありませんでした。
視察を終えて皇后は歌を詠んでいます。
いと車とくもめくりて大御代の富をたすくる道ひらけつゝ
技術を磨き、熟練度を競う工女たち
富岡製糸場での仕事の花形は
繰糸(製糸器械の前に座り、釜から繭糸を引き上げ、器械の枠に
巻き取らせる作業)で、繰糸の技術習得が工女たちの目的であり、
熟練度によって等級分けされていた。
一等工女に駆け上がって故郷へ帰ることを目標に、工女たちは技術を
磨き、熟練度を競い合ったのです。
この後、宮中での養蚕は歴代の皇后に引き継がれ、現在でも
紅葉山御養蚕所で、皇后陛下が養蚕産に励まれています。
御養蚕所で収穫された繭は絹織物となり、外国訪問のときの贈答品や
宮廷祭事などにも使われます。
紅葉山御養蚕所(もみじやま ごようさんじょ)
合計で12 – 15万頭のカイコを飼育。
紅葉山御養蚕所では,養蚕の最盛期に日本の養蚕家が行っていたと
ほぼ等しい手作業が,春またから初夏の2ヶ月間行われており、
主任を含む5人の奉仕者と共に,皇后陛下は日々のご公務の間を縫い,
この作業のほぼ全ての工程に関わっておられます。
《さいごに》
皇室の御養蚕は、昭憲皇太后から現在の雅子皇后へと引き継がれ、
日本の重要な皇室行事となっています。
宮中の着物には日本の歴史が生き続けています。
「宮中御養蚕」の先導の役割を果たしたのが、渋沢栄一であったことに
感動します。