催し物

最後の水戸藩主・徳川昭武家族中心の絵はがき展!パリ万博がつなげた昭武と渋沢の縁

戸定が丘歴史公園の入口です。階段を登って奥まで行くと左側に戸定歴史館、

右側に戸定邸があります。

 

徳川昭武が時候の挨拶や近況の確認、旅行の滞在先で撮影した写真や風景

のスケッチなど使用した絵葉書を集めた展覧会が開催中です。

これらの絵葉書から、徳川昭武や家族、親族間の交流や心情、

暮らしぶりを想像してみました。

またほとんど、

影の人物となっていた昭武がいたからこそ、渋沢栄一の今があるのです。

下記クリックで好きな項目に移動します☆

企画展「戸定だより-絵葉書から見る暮らし」

 

入館は午前9時半~午後4時半 月曜休館。

(7月15日と8月12日は開館し翌日休館)。

入館料は一般150円、高校大学生100円。

戸定邸との共通入館券はそれぞれ320円、160円。中学生以下無料。

戸定歴史館地図

《アクセス》

 

〒271-0092 

千葉県松戸市松戸714の1

電話:047-362-2050

JRまたは新京成線「松戸駅」 東口下車徒歩約10分

 

昭武が旅先から母親・秋庭(しゅうてい)に宛てた便り

 

入院中の昭武が秋庭を安心させるため、見舞いに来た長女の昭子が

病室のランをスケッチした絵はがきで、診察や検査の内容を

伝えていた絵はがき。

 

《昭武の母・秋庭》

万里小路建房の六女で、睦子という名前、徳川斉昭の側室として、

昭武を産みました。

他には女一人、男2人を産み、晩年は息子の側室・八重とともに

徳川昭武の戸定邸にて暮らしていました。

昭武と秋庭に宛てた昭子の絵はがき

 

 

長女・昭子は旧高松藩主家出身の伯爵・松平頼寿と結婚しましたが

昭子が子供を産むことはありませんでした。

 

徳川昭武はどんな人物?

 

徳川昭武は、幕末から明治にかけての重要な人物でした。

彼は水戸藩の最後の藩主であり、

ヨーロッパを歴訪し、外交的な役割を果たしました。

明治維新においても重要な役割を果たしました。

パリ留学

 

昭武は13歳のとき慶喜の代理として、パリ万国博覧会に参加することに

なりました。

パリでの昭武は、万国博覧会に参加したり、ナポレオン3世と

会見するなど、大忙しでした。

さらに、スイス、オランダ・ベルギー、イタリア、イギリスを訪問し、

大統領や国王と会見しました。

その後、慶喜のいいつけ通りに留学生活を始めました。

歴史博士
歴史博士
フランス語や歴史、絵画の授業まであったんだ。慶喜はナポレオン3世に昭武の教育係を紹介してもらい、この教育係となった軍人ヴィレットとは、ヴィレットが亡くなるまで40年間にわたって交流が続けられたんだ。

 

その頃、日本では江戸幕府にかわって、明治新政府が誕生します。

昭武は留学を中断し、日本へ帰国することになりました。

帰国した昭武は水戸徳川家を継ぎました。

彼は最後の水戸藩主となったのです。

渋沢栄一がフランスに随行するきっかけをつくった徳川昭武

 

渋沢栄一当人にとってみれば思いもよらない経験だったのは

1867年のパリ万博に昭武と共に赴いたことです。

昭武が仮に将軍代理としてパリに行かなかったならば、

渋沢は「万博に行け」と命じられることはなかったでしょう。

こういうことが様々な運命の“模様”となって、

渋沢は明治になってからめざましい活躍を遂げたんですね。

日本の養蚕業・工芸品がパリ博でグランプリを受賞!

 

「養蚕・漆器・手細工」が最優秀賞を獲得することで、

日本への注目が集まることになります。

 

lala
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この高評価って、どんな背景があったの?

 

歴史博士
歴史博士
まず、日本の養蚕業は、絹織物を主要な輸出品とするフランスにとっては重要な産業で良質な蚕や生糸を求めていたからで、また陶磁器や漆器などは伝統を保持しながらも、創意工夫に満ちているとして、その芸術性が高く評価されたんだね。

 

戸定邸(とじょうてい)って誰の住まい?

 

戸定邸は、徳川昭武(とくがわあきたけ)が個人で持っていた別邸。

lala
lala
「別邸」というと、ときどき滞在するようなイメージがあるけど、どのくらい暮らしていたの?

 

歴史博士
歴史博士
30歳から56歳までを戸定邸で暮らしてたんだ。昭武は、華族(かぞく:みぶんの高い人)だったから、儀式や行事に参加するため、華族は東京で暮らすいうルールがあった。そのため、昭武は墨田区の小梅邸(こうめてい)という家ももっていたんだ。松戸の戸定邸は、昭武が趣味を楽しんだりのんびりと過ごしていた場所だったよ。

戸定邸には昭武だけが住んでいたの?

 

昭武専用のお屋敷といったけれど、

歴史博士
歴史博士
徳川昭武とその家族 昭武の母秋庭(しゅうてい)・妻八重と学校にいくまでの子どもたちも住んでいたんだよ。小学校に上がった子どもたちは、華族の子どもたちが通う学校が東京にあったので、東京の小梅邸で暮らしていたんだ。当時の徳川家では、家族の身の回りの世話をする職員の家族も、戸定邸の敷地内にあった職員用住宅に住んでいたんだよ。

戸定邸はどれくらいの広さなの?

 

歴史博士
歴史博士
戸定邸は9つの建物が連なり、23もの部屋があるんだよ。「表」という仕事・接客スペースと、「奥」という家族の生活の場にわかれていてるんだ。

毎月10日、20日、30日は通常入ることができない庭園に

入ることができます。

戸定1正面夏

《最後に》

なかなか徳川将軍の直筆の絵を見る

機会なんてないですからいい機会だと

おもいます。

さまざまな趣味を持っていた昭武ですが、

特に写真が好きだったようです。

明治36年ごろから本格的に写真撮影に没頭し始めた昭武は、

1500枚以上の写真を撮影していました。

戸定歴史館には昭武が撮影した写真が展示されています。

その中でもカメラは当時、かなり高価なものでした。

そんなカメラを使って写真を趣味にできたのは、昭武のような一部の人間

だけですね。

 

以前にこんな記事をかいています。よかったらごらんください。

 

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yumiko
パソコン初心者のシルバーエイジです。自分で言うのもおかしいですが、それほど世の中の常識にとらわれることなく前向きなほうです。言い換えればマイペースです。猫2匹と暮らし、近所の犬とも無条件の信頼でつながっています。