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「新一万円札の顔」幼少期から養蚕と慣れ親しんでいたことが富岡製糸所設立に関わるきっかけとなる!

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2024年7月3日に発行される”新一万円札の顔”として選ばれた

渋沢栄一とは、どんな人物なのでしょうか?

その功績、新紙幣の肖像に選ばれた理由、生い立ちとゆかりの地、

今につながるエピソードなどを交えてご紹介していきますね。

また渋沢栄一が開設までの準備に尽力した世界遺産

「富岡製糸場」からつながる繊維工業~糸の道~をたどってみます。

渋沢栄一とは?

 

「名前は知っているけど、詳しくは知らない」という方も多いのでは?

「渋沢栄一とはどんな人か?」、

 

また「何がすごいと言われる人なのか?」

この私さえも驚くばかりの人だったんです!!

 

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一体何が「すごい」と言われるの?

 

渋沢栄一は1838年生まれです。

日本の経済を支えて成長させたのが渋沢栄一です。

明治時代は日本が大きく変わる時期でした。

最初は政府の役人でしたが民間企業の力も必要だと考え、

官僚をやめて民間企業に移り実業家になりました。

 

研究者
研究者
我々に身近なところで、新しいお金の単位「円 銭 厘」」を作ったんだ。銀行を作るためのルールを決めたり、世界文化遺産に登録された「富岡製糸所」など大きくて有名な工場を建てる計画もたくさん考えたんだ。

生い立ち 戦国時代から続く豪農「渋沢家」

 

渋沢栄一が生まれたのは、現在の埼玉県深谷市です。

渋沢家は代を経るごとに分家を作っていき江戸時代(1831年~1845年)

には、渋沢家は10数軒の家屋がありました。

宗家に男子がなかったため、父・美雅は分家筋から婿養子として

家督を継ぎました。

栄一の父 美雅の代で大きく飛躍

 

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渋沢家はどうやって成功したの?
博士
博士
美雅は「本家復活プロジェクト」を立ち上げ、家業の養蚕と特産品として染め物に重宝されていた「藍」の製造・販売に乗り出したんだ.

⓵ 養蚕は、絹糸を生産するためにカイコの幼虫を育てる過程であり、

② この絹糸は藍染に使う布地を織るために使われる、

藍玉(染料)は藍染において養蚕は非常に重要な役割を果たしているんだ。

新一万円札の顔「渋沢栄一」

 

これまでにも渋沢は何度も紙幣の肖像候補になっていたと思われます。

例えば、1963年に発行された千円札のときは最終候補まで残りました

が、伊藤博文に決まりました。

その頃の紙幣は、まだ政治家を肖像にする風潮が強かったのですが、

 

博士
博士
落選理由は渋沢栄一にはひげが無かったんだ、当時の緻密(ちみつ)に描き込まれた髭は、偽造防止に有効とされていたためだよ。

「近代日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢ですが、

lala
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渋沢栄一ってこんな人だったのね。

 

2023年は関東大震災から100年目にあたりました。

博士
博士
関東大震災の時は、飛鳥山の邸宅地を避難所として罹災者に開放し、民間から寄付金を集め、被災者の生活を再建する団体も立ち上げたんだよ。渋沢は国だけでなく民間の力も被災者救助には必要だと考えていたんだね。

 

2024年も1月1日から能登半島で大きな地震が起き、

毎年のように各地で大規模災害が起きています。

国家の力は当然重要ですが、

民間の結集の大切さを伝えたのが渋沢でした。

lala
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渋沢栄一は民間外交でも重要な役割を担っていたのね。

「人形交流」です。

日露戦争後に日米関係が悪化したときに修復するために尽力しました。

博士
博士
世界国際児童親善会の米国から1万2千体の「青い目の人形」を日本中に配り、米国に返礼として日本人形を58体贈ったんだ。

人と人との理解は大人になってからでは遅い。子供世代からの国際交流を重視すべく「世界の平和は子供から」をスローガンとして1925年「世界児童親善会」を結成し、その第一事業として1927年、子供同士の友好親善に代わる人形を通じての日本との親善活動が行われた。

渋沢栄一ゆかりの地「製糸工場の建設」まで

 

既に主要な輸出品となっていた絹を利用して外貨を獲得し、

そのためには今までのような手作業ではなく、洋式の器械と技術を

取り入れた近代的製糸工場を建設し、高品質の生糸を大量に

生産しようとします。

群馬県の富岡は、古くから絹産業が盛んな場所でした。

水や繭や燃料、地元の理解など工場の設置に必要な様々な条件を

満たしていることが決め手となって、

ここに官営の富岡製糸工場を建設することが決まります。

明治3年、渋沢栄一が製糸場の設置主任に任命され、深谷の実家で蚕を飼っていたため養蚕に詳しかったことが抜擢事由なんだよ。

「富岡製糸場」建設にかかわる3人の深谷人

 

⓵ 設置主任(妻千代は尾高の妹)渋沢栄一

② 工場建設の現場を取り仕切った尾高惇忠(おだか あつただ)

③ 資材調達を任された韮塚直次郎(にらずか なおじろう)

 

尾高淳忠はどんな人物?

 

工場建設の責任者には渋沢栄一の従兄弟(いとこ)であり師でもあった

尾高惇忠が推され、のちに初代の富岡製糸場長となりました。

 

《富岡製糸所での活躍》

「外はレンガ造りで中は木骨」という、建築様式を提案。

それには大量の木材が必要であり、

博士
博士
当時の日本はまだ宗教心が根深く、相当な反発があったんだが、惇忠はその木材調達のため「妙義山の御神木を使わせてほしい」と、地元住民や神社を説得して回り、最後には「ぜひ使ってくれ」と言われるまでになっていたんだ。

韮塚直次郎の活躍があってこそ!!

 

直次郎は両親が働いていた尾高家で生まれ、住み込みの奉公生活を送り、

直次郎と惇忠はきょうだい同様の生活をして強い信頼関係が築かれた。

公私にわたる親交は50年以上続いたという。

博士
博士
渋沢のことを知っている人は多いが韮塚直次郎のことはどうかな?あまり知られていないと思うが富岡製糸所があれほど発展したのはあの韮塚氏の働きがあってこそ!なんだ。

 

製糸場は洋式の建物となることが決まっていて、

明治初期、それがどんな建物なのか、想像すら出来なかったのに、

直次郎は地元明戸の瓦職人たちを束ね、煉瓦は、フランス人技術者が

瓦職人に作り方を教え、福島町の笹森稲荷神社東側に窯を築き

瓦と共に焼き上げました。

その中心となったのは深谷からやってきた瓦職人でした。

煉瓦の目地には、モルタルの代わりに漆喰(しっくい)を使い、

原料となる石灰は下仁田町青倉・栗山で調達しました。

妙義山から杉の木の切り出し、連石山から石材の切り出し、

輸送や瓦など、多くの資材調達を請け負った 韮塚直次郎は、

 

博士
博士
試行錯誤を経て、今も風雪に耐えて建物を支える煉瓦をつくり出した韮塚直次郎は、製糸場完成後は富岡製糸場の工女400人分、1日3食の賄い(今で言う社員食堂)を任せられたんだ。

このようにたゆまぬ努力ができた背景には、

尾高家の物心両面の力添えもあったと思われますが、

この直次郎のひたむきに努力する姿を尾高惇忠が目の前で見ていたため

直次郎に対して深い信頼を寄せたと見る事が出きますよね。

 

尾高惇忠の長女、尾高ゆうは、工場操業時に指導役のフランス人を恐れて

工女志望者が集まらない父の苦難を察し、自ら志願して最初の工女として

製糸技術を習得したそうです。

 

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yumiko
パソコン初心者のシルバーエイジです。自分で言うのもおかしいですが、それほど世の中の常識にとらわれることなく前向きなほうです。言い換えればマイペースです。猫2匹と暮らし、近所の犬とも無条件の信頼でつながっています。