「ゴッホ展-響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」が、
9月18日から東京都美術館で開幕.
タイトルにある「ヘレーネ」とは、ゴッホ作品の
世界最大の個人収集家である
ヘレーネ・クレラー=ミュラー(1869〜1939)のこと.
日本ではほとんど知られていない一人の収集家に、
なぜスポットを当てたのか?
展覧会の見どころは?
本展では、クレラー=ミュラー美術館から
ファン・ゴッホの絵画28点と素描・版画20点、
ミレー、ルノワール、スーラ、ルドン、モンドリアンらの絵画20点も
あわせて展示し、
ヘレーネのコレクションも紹介します。
さらに、
ファン・ゴッホ美術館から《黄色い家(通り)》を含む4点を展示し、
20世紀始めからファン・ゴッホの人気と評価が
飛躍的に高まっていく背景にも注目します。
下記クリックで好きな項目に移動します☆
ヘレーネのフィンセント・ファン・ゴッホ コレクション
《ヘレーネと夫アントン》
![1900年頃の若いカップルの魅力的で象徴的な時代の写真。女性は髪を上向きにスイープし、宝石で留められた高い襟を着ています。 紳士はきちんと整えられた勇敢な口ひげを生やし、また高い襟を身に着けています。](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/26/Helene_M%C3%BCller_and_Anton_Kr%C3%B6ller.jpg/220px-Helene_M%C3%BCller_and_Anton_Kr%C3%B6ller.jpg)
ヘレーネ=・クレラー=ミュラー
は、
オランダ有数の資産家。
4人の子供の母だったエレーネは、
娘が通っていた絵画教室で芸術に触れ、
1900年代にはいってから絵画コレクションをスタート。
個人収集家としては
最大規模の300点のゴッホ作品を収集し、
38年にはクレラー=ミュラー美術館を開館、
同館は、オランダのゴッホ美術館に次いで
世界で2番目のゴッホ・コレクションを有する美術館。
時代ごとのゴッホの作品
ゴッホはオランダ南部にある小さな町の牧師の家に生まれ、
祖父も父も牧師でフィンセントにも同じ道が考えられたが
人から強制されることが嫌いなゴッホは学校になじめず退学となり、
叔父の紹介でパリの一流画商に勤める。
が、
画商を解雇されたゴッホは
再び聖職に就くための勉強に励むがラテン語の勉強について行けず、
正規の牧師になる道は閉ざされてしまいます。
画家になったいきさつ
見習いの伝道師として炭鉱や農村を回った時、
ミレーのように貧しい農村の労働者を描きたいと想い
デッサンをしていました。
残された道は絵を描くことだけでした。
弟から援助を受けながら32歳になっても売れない画家でした。
パリのモンマルトルに住む弟のもとに転がり込み、
そこでパリの最先端の絵画の流れを知ることになるのですが、
ここ、パリでの生活もゴッホに向いていなかったのです。
素描家(そびょうか) ゴッホ、オランダ時代
ゴッホは画家となる決意をしました。
まずミレーなどの版画作品や素描見本の模写を始めます。
農作業や手仕事をする人物を描き始めます。
バーグの暮らしでは、都市風景のほか、
近くの療養院の男女をモデルに人物素描に力を注ぎます。
《スヘーフェニゲンの魚干し小屋》
クレラー=ミュラー美術館
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/114180277/rectangle_large_type_2_3c9170c9d41fccdaa234909ccd96dfa6.jpeg?width=800)
画家 ゴッホ、オランダ時代
素描で画家になる訓練を重ねたのち、
移り住んだニューネンの地で本格的に油彩画に着手します。
《麦わら帽子のある静物》クレラー=ミュラー美術館
画家 ゴッホ、フランス時代
1886年ゴッホはパリで、画商として働く弟テオと暮らし始めます。
パリに暮らす前衛芸術家たちと付き合うようになり、
ゴッホは自分の描き方が時代遅れであることに気づき、
新しい表現を試みていきます。
約2年後、前衛画家として認められるようになりました。
《レストランの内部 》 クレラー=ミュラー美術館
![](https://wakaru-gogh.com/wp-content/uploads/2018/11/%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%86%85%E9%83%A8.jpg)
画家 ゴッホ アルル
![フィンセント・ファン・ゴッホ 《黄色い家(通り)》](https://img.huffingtonpost.com/asset/6126089d410000cad1837c9b.jpg?ops=scalefit_630_noupscale)
パリからアルル(南フランス)に
移り住んだゴッホは、
ここで芸術家仲間と
切磋琢磨(せっさたくま)しながら 《黄色い家》
ともに制作を行うことを望んでいた、 《ゴッホ美術館》
その拠点として借りたのがこの「黄色い家」。
この作品を描いた一か月後、
ゴーギャンが合流するが、
2人の共同生活は2カ月ほどで破綻してしまう。
ゴッホは青と黄色の組み合わせを好んで用いた。
この作品においても、空の濃い青が、
「黄色い家」の色彩を際立たせる。
ファン・ゴッホの代表作「糸杉」シリーズ
このゴッホの「糸杉」シリーズは
1889年~1890年にかけて集中して描かれています。
ゴッホの晩年を代表する作品とも言われていて、
しかもこの1年くらいの間に一体何枚描いているのか?
ゴッホは気に入った題材は何枚も描く事は知られています。
この「糸杉」シリーズのほとんどは
ゴッホが精神的に病んで療養所に入所していた時期で
ゴッホがサン=レミ(南フランス)に居た頃に描かれています。
「糸杉」とは?
ヨーロッパでは街路樹や公園樹として植えられており、
クリスマスツリーにもよく使われる木です。
そしてイエス・キリストがはりつけにされた十字架は
実はこの木から作られていたという話もあるそうです。
地域によっては神聖な木として崇拝されていたりもするし、
俗に糸杉は”死”を象徴する木と言われているそうです。
精神病院での制作 ① 1889年 「糸杉がある麦畑」
「糸杉のある麦畑」は、1889年にゴッホが
麦畑シリーズとして描いた
作品でよく似た作品が三点ある。
どれもフランスのアルルに近いサン・レミにある
サン・ポール・ド・モーゾール精神病院で制作されたもの。
約1年間ゴッホはこの病院に入院、
病院の窓から臨んだ景色を見てインスピレーションで描かれたもの。
精神病院での制作 ⓶ 1890年「糸杉と星の見える道」
「死」の2か月前、「糸杉と星の見える道」には
死期が近いと自覚したゴッホの心境が
反映されています。
精神病院での制作 ⓷ 1889年 「星月夜」
ゴッホはこの作品を描いた翌年、
自ら命を落としました。
病院には作品の左に写っている「糸杉」が
植えられていたそうです。
そのためゴッホが精神病院に入院してから亡くなる1年間の作品には
糸杉がよく描かれています。
精神病院での制作④1889年 「サン=レミの療養院の庭」
《クレラー=ミュラー美術館》
![](http://omochi-art.com/wp/wp-content/uploads/2021/04/de-tuin-van-de-inrichting-in-saint-r-my-vincent-van-gogh-44544-copyright-kroller-muller-museum.jpg)
起こし、ゴッホは病気に悩まされることとなり、
そのため翌年の春は、
美しい花々を描くことができなかった。
彼はサン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール療養院に入院、
そして、穏やかな生活を取り戻しながら、
ようやく花々を描く機会に恵まれ、
療養院の庭園は、ちょうどバラやアイリスなどが咲き誇っていた。
響きあう魂 ヘレーネとフィンセント
展示会場に足を踏み入れると、
アンバサダーを務める俳優・浜辺美波が
ゴッホとへレーネについて紹介する映像と、
へレーネがいつ・どの作品を入手したかを
図示するパネルに出迎えられる。
「収集家、クレラー=ミュラー美術館の創立者」という
最初のセクションが、このゴッホ展が画家だけではなく、
へレーネの足跡に重点を置いた構成となっているところに
注目してください。
また、ヘレーヌばかりでなく、
ゴッホの弟テオとその妻ヨー、多くの人々の支え、援助があったのです。