散策

現存する江戸時代からの渡し船「浦賀の渡し」ミニ旅とペット・自転車OK!のプチ航路

 

紺屋町バス停で降りると目の前に乗船場がある。

浦賀湾をグルっと回るようにして歩くと

約30分かかるところが、この渡し船を使えばたったの3分!

地元住民はもちろん、古い町並みが残る東西浦賀の街を

歩くのに欠かせない船です。

目的なんか無くてもいい、海が好き、ただ乗ってみたい。

そんな方におすすめです!

下記クリックで好きな項目に移動します☆

渡し船「愛宕丸(あたごまる)」

 

海上ながら横須賀市道2073号の扱いで、航路の長さは東西233m

(所要3分)。

一日平均 150人ほどが利用しているそう。

全長:9.50m 総トン数:4.8t 全幅:2.70m 旅客定員:12人

《住所》西渡船場:神奈川県横須賀市西浦賀1-1 

東渡船場:神奈川県横須賀市東浦賀2-22

TEL 046-825-7144 (株式会社トライアングル)

《営業》7:00~17:00 (12:00~13:00は昼休み)

《料金》大人 400円 小中学生 200円

往復するならワンデイパス600円がおすすめ。

自転車は+50円です。ペットは無料。

無休(ただし、荒天時・修理・点検時は休業)

《アクセス》

西渡船場:京急線 浦賀駅から久里浜方面行バス

「紺屋町」バス停下車すぐ

東渡船場:京急線 浦賀駅から観音崎方面行バス

「新町」バス停下車 徒歩約3分

約3分程の船旅見どころ

 

さわやかな海風や波を感じる。

パワースポットで有名な東西叶神社の参拝。

浦賀湾や浦賀造船所跡地に建つクレーンやドッグを眺める事.

開国の歴史めぐり

ができます

ダウンロードができます。

浦賀駅コース - 横須賀市観光協会

浦賀の渡し長いみちのり

 

この港は、湾が約1.5kmも入り込み、東西両岸に住民が

往来するのには、渡船を利用することが最も便利でした。

看板によると

明治までは民営で大正6年からその重要性を評価され

浦賀町営となり、昭和24年(1949年)以後、運航業務を

民間に委託し、現在に至っているとのこと。

以前は櫓(ろ)こぎの船でした。

現在の愛宕丸は2代目で

平成10年(1998年)に就航120周年を記念して建造されたもの。

渡船の歴史は古く、享保18年(1733)の「東浦賀明細帳」には、渡船を

修復する際、周辺の村も東西浦賀村と応分の協力をすることとあり、

当時の船頭の生活は、東西浦賀村の一軒あたり米六合で支えられていました。

この港に目を付けた徳川家康は、

「浦賀奉行所」を配置 日本を開国へ!

 

浦賀奉行(船番所)が置かれると、江戸湾に出入りする船は、

浦賀で船改めをすることが義務づけられ、

そのため、浦賀の町は大いに栄えました。

浦賀奉行所の復元を 協議会が発足式 | 話題 | カナロコ by 神奈川新聞

陸軍桟橋の前の駐車場が浦賀奉行所の番所が置かれていたところです。

番所では、江戸へ出入りする船の荷改めを行い、江戸中の経済を動かす

重要なもので、 その業務は昼夜を通じて行われていました。

三浦按針ゆかりの「港町・浦賀」

黒船来航の地として知られる浦賀ですが、実は江戸幕府初期按針と徳川家康によって“国際貿易港”として未来が託されていた

地でもありました。

三浦按針とは?

 

三浦按針ことウィリアム・アダムスは、徳川家康に知識や人柄を

認められ船大工の経験のあった彼が120tの大型船を完成させた

功績により、250石取りの旗本となり、造船・貿易・通訳などを

任されて異国人でありながら日本の武士として生きた人です。

名前の由来は三浦半島の”三浦” 按針は水先案内人の意味です。

なぜ浦賀だったのか?

 

浦賀は江戸湾の出入口にあり、静かで造船や停泊に適した港で

あったこと、江戸からも近く、戦略的価値が高い場所でした。

家康は、オランダやスペイン、ポルトガルとの交易ルート確立を

目指し、按針にはその交渉・技術指導が期待され、

特に浦賀での外洋船の修理・建造などは家康が按針に託した

大きな役割でした。

 

そして按針の働きにより

太平洋横断航路が実現

 

一時は長崎・平戸と肩を並べる重要港となったとされています。

太平洋を渡った「咸臨丸」とはどのような船?

【勝海舟が乗った船】日本初!太平洋を往復した咸臨丸

《太平洋横断に成功した幕府軍艦「咸臨丸」》

オランダに発注した船で長崎海軍操練所という幕府の海軍養成所の

訓練用の船として使用されていた船、その2年前に日本はアメリカと

「日米修好通商条約」を結び、当時はもちろん電話などないので

条約締結確認のために国に一回持ち帰り、きちんとOKが出るのを

確認するため幕府の使節団が派遣されることになったのです。

勝海舟や福沢諭吉も乗船。

浦賀 コミュニティセンター 分館で咸臨丸や奉行所の模型を見学

浦賀コミュニティセンター内部

 

2階には、無料で入場できる

郷土展示室」があります。

ここでは、浦賀にまつわる

歴史や文化を紹介。

 

浦賀奉行所や勝海舟らが乗った咸臨丸、ペリー提督が乗っていた

「サスケハナ号」、浦賀で建造された幕府初の洋式船

「鳳凰丸」の模型が展示してあります。

引揚船が接岸した「陸軍桟橋(西浦賀みなと緑地)」

 

陸軍桟橋は、ペリー来航や咸臨丸出帆など歴史の舞台となった
浦賀港を一望できる公園です。

陸軍桟橋

浦賀港は、第二次世界大戦後、外地からの引揚者を受け入れた引揚港

となり、56万人もの引揚者を受け入れました。

引揚者というと、13年間に66万人の引揚者を受け入れた

舞鶴が有名ですが、

浦賀は2年間で56万人を受け入れ、コレラ船が全て浦賀に回された

ことを考えると大変な復員業務であったと思います。

浦賀の引き揚げ船の第一陣氷川丸

 

 

アメリカ本土からの一般邦人が主だったそうですが、

その後南方諸島からの引揚船が続きました。

その多くがマラリアや栄養失調を患って、担架でおろされたり

亡くなる方もいたそうです。

灯台の先祖「燈明堂」

 

燈明堂

明治の初めごろまでの約220年間にわたり灯をともし続けました。

二階建燈明堂で菜種油が灯火の原料、

維持費は、浦賀商人の負担であったそう。

 

《さいごに》

ほんの数分で対岸に到着します。

心地よく風や波を感じている時間もわずか。

時にはこのような船も面白いものですね。

着岸も接岸も職人技!乗り降りしやすいように配慮してくれます。

按針も使ったかもしれませんね。

ABOUT ME
yumiko
パソコン初心者のシルバーエイジです。自分で言うのもおかしいですが、それほど世の中の常識にとらわれることなく前向きなほうです。言い換えればマイペースです。猫2匹と暮らし、近所の犬とも無条件の信頼でつながっています。