未分類

上高地をちょっと知ろう!世界に日本を紹介した「W・ウエストン」と案内人「上条嘉門次」

 

河童橋から上流へ約一時間、いよいよ本格的な山への入り口と

いう場所、

明神池近くにあり、”日本近代登山の父”ウオルターウエストンの

案内人を務めた”上条嘉門次”ゆかりの小さな山小屋があります。

囲炉裏でじっくりと焼き上げたイワナの塩焼きが名物。

W・ウェストンと、山岳案内人・上條嘉門次。

この2人は出会うことで、共に同じ頂を目指したことが、

日本の山に確かな足跡を残したのです。

下記クリックで好きな項目に移動します☆

イギリス人「ウオルターウエストン」の功績

 

「W・ウェストン」という人を一言で語るなら、

「上高地という場所を発見した人」だとおもいます。

初めてこの地に立ったウェストンの心境を想像すると

河童橋もない、原始的な姿に違いありません。

その姿を「日本アルプス」と称し、世界に広めた”上高地の恩人”で

あります。

また、若い登山愛好家との交流が「日本山岳会」の誕生にも

つながりました。

「W・ウエストン」が上高地の山々を登った頃の日本の登山とは?

 

日本では昔から山は”信仰・修行”としての対象であり、”狩猟”など生活

のための山登りだったのです。

「人が死ぬと魂は山の尾根を伝って山頂から天に昇る」という

考えのもとから

どの山にも山頂には神社や神を祀る小さなお堂があるのはそのためです。

「山岳会」が発足後10年余りで、日本人の間にも”楽しみとしての

登山”が広まり、ウエストンは

「日本近代登山の父」と呼ばれるようになりました。

日本政府は彼の功績をたたえて勲章を贈り、「日本山岳会」が記念として

ウェストン広場にレリーフを設置しました。

 

規模縮小して開催された2020「ウエストン祭」

 

新型コロナ感染拡大防止のため、例年300人ほどのところ

30人で献花などをして偉業をたたえました。

昭和22年から欠かさず続けられています。

日本各地でウエストン祭を開催

 

彼の死後、日本の山を世界中に紹介したことなどを称えて、

上高地に加えて日本の各地でも

ウェストンの記念碑、レリーフなどが設置され、山開きの時期に

ウェストン祭が開催されるようになりました。

ウェストン公園が整備されているところもあります。

青森ウェストン祭 – 明治35年の青森を襲った飢餓の際、救援活動を行ったことに感謝

して開催されています。

海のウェストン祭 -新潟県糸魚川市では、

「親不知が日本アルプスの起点である。」として訪れていることで、

「海のウェストン祭」が催されています。

ミセス・ウエストン祭 – 長野県の戸隠キャンプ場で毎年8月第1土曜日に、

戸隠山と高妻山に初めて登頂した外国人女性である

エミリー・ウエストン(彼の妻)を偲ぶ祭典として

「ミセス・ウエストン祭」が催されています。

恵那山ウェストン祭 – 恵那山ウエストン公園では、明治26年に恵那山に

登り世界へ紹介したことを記念して、毎年5月11日に中津川市

観光協会により催されているいます。

宮崎ウェストン祭 – 高千穂町では、明治23年に韓国岳と高千穂峰登頂の際に

訪問したことを記念して五ヶ所高原にて毎年「宮崎ウェストン祭」が催されています。

 

W.ウェストンの定宿としていた清水屋旅館

 

現・上高地ルミエスタホテル

ロビーにはウェストンの残した外国人登山者のための

「クライマーズブック」が展示されています。

売店・お土産 – 上高地公式ウェブサイト

 

W・ウエストン夫妻の山案内人「上條嘉門次」

 

32歳の時には明神池のそばに自分の小屋を持ち、遠くは黒部まで

足をのばすほど上高地一帯の地形を熟知していました。

その頃の梓川流域住民の暮らしは?

 

梓川の流域の村は、松本藩の御用林の仕事に従事する

杣人(そまびと・・・きこり)の集落で、杣たちは五月から十月までの

期間を、上高地の杣小屋で集団生活をしながら、木を伐り梓川の水を

利用して、松本まで木材を流す仕事に専念し、雪深い冬の間は、

炭焼などで、細々と生計をたてていました。

 

嘉門次の子供時代からの成長~

 

こどもの頃の嘉門次は家から数十歩も歩けば山で、

獣を見たり、木の実や草の芽を食べることも、この山で覚えたのです。

一二歳からの嘉門次…杣の見習いになる

 

十二歳から、父と共に上高地に入り杣小屋で、杣たちとの共同生活が

始まりまだ半人前だったので杣たちの炊き出しなどしていました。

合間にイワナを釣ることを覚え、他のだれよりも上手でした。

どういうきっかけで鉄砲にさわるようになったのか、

好奇心が強く、機会があれば山を歩き、鉄砲の練習をしたのでしよう。

嘉門次がカモシカ猟にでたのは、十四才のときでした。

十七歳~ 狩猟とイワナ釣りの技術・・・冬眠中のクマを起こす

 

十七・八才の頃には、杣小屋や伐採現場を管理する藩の役人の助手と

なって、上高地を縦横に歩きまわり山での経験は次々に積み重ねられて

成長していきます。

杣というよりも猟師の腕をみがいたといった方が適切。

明治になり国有林は伐採を禁止されたため多くの杣たちが生活に

困りました。

が、この狩猟の腕とイワナを手早く釣る技術が、嘉門次の身を

助けたのでしょう。

14歳ではじめてカモシカを撃ちとり、生涯でクマ80頭、カモシカ500頭

は仕止めたと伝えられるほど、抜きん出た腕の持ち主でした。

冬眠中のクマをも揺り起こし、その時に負ったけがで右足を

引きずるようになっていました。

W・ウエストンとの出会い 45~46歳

 

明治26年はウェストンの滞在中、最も精力的に登山を行った年でした。

前穂高岳を単独で登るという計画を立てていたウエストンにガイドとして

上條嘉門次を紹介されたのはその時。

当時はまだ地図がなく、山中に宿泊施設もなかった時代で

山に精通した案内人を雇うことが、必須だったのです。

が、山の案内人という職業があったわけではなく、登山者が

山麓の村に住む猟夫に依頼し、山を歩くような状況で、

その猟夫も熊やカモシカを狩るのが仕事で、先導役に向かない場合も

多かったそうです。

「ウェストン」外国人登山者で初めて、穂高の一角に足跡を残す

 

悪天候で先を急ぐウェストンと、反対する嘉門次との間に意見の

食い違いがあり2人の初対面は決してスムーズなものでなく、、。

結局その日はあきらめて翌日に出発することに、

豪雨による爪痕は想像以上に深く、ウェストンは嘉門次の的確な

判断に驚いたそうです。

そして麓の小屋から約6時間後、ウェストンは外国人登山者で初めて、

穂高の一角に足跡を残すこととなったのです。 

日本アルプスの名とともに世界に知られる名案内人になる!

 

嘉門次にとって、山案内人として世界にその名をとどろかす

最初の登山が、ウォルター・ウェストンと二人でおこなわれたのです。

いったん帰国したウェストンは、

彼の著書の中で「ミスター・カモンジ」として写真付きで紹介し、

これが、名ガイドとしての嘉門次の名を世の中に知らしめるきっかけと

なったのです。

また、その後、スポーツや娯楽としての登山が盛んになったことも

あり、嘉門次はガイドとしての地位を着実に固めていきました。

 

上高地に来たらここは行っておきたいおすすめスポットをピックアップ!

ABOUT ME
yumiko
パソコン初心者のシルバーエイジです。自分で言うのもおかしいですが、それほど世の中の常識にとらわれることなく前向きなほうです。言い換えればマイペースです。猫2匹と暮らし、近所の犬とも無条件の信頼でつながっています。